ゲームはツラくないのに仕事はツラいというのは錯覚ではあるまいか
仕事≒ゲーム?
ここで考察したいのは、仕事はツラいという思い込みによって、僕は必要以上に自分を苦しめていないか?ということである。決して「仕事はゲーム感覚で楽しもうぜウェーイ」というような調子ではない。
あと、仕事と一言で言っても、背負ってる使命とかリスクとか、身体的肉体的負担の種類も様々であるから、一般論で何かを片付けてしまおうというつもりもない。
今回は、仕事がツラすぎる僕の為に、それを少しでも緩和してあげるためのパーソナルな考察である。
いずれも課題解決の要素がある
やらなければならないことがあり、その為に頭をひねったり、試行錯誤したりしなければならない。失敗もする。ラスボスの間の扉を開けるための暗号を、実は、ひとつ前の街で聞き出しておかなくてはならなかったと知り、扉の前でうなだれることだってある。そう考えるとゲームも楽ではない。でも嬉々として一生懸命やってしまう。
これは仕事だって同じはずである。難しい状況に直面して、情報を集めたり、ものは試しと当たって砕けたりしながら活路を切り開いてゆく。ゲームと同様、嬉々としてやっても良いではないか。
いずれも訓練の要素がある
習熟すればするほど物事を上手く運ぶことができるようになる。ただし習熟にはエクササイズが必要だ。そしてエクササイズとは往々にして退屈である。
ゲームの中で、剣を振るって特定の敵を倒せるように、戦いを繰り返す。少しでも早くゴールできるように何度も走る。僕はこういったことを、目が悪くなると注意されてもやり続けてきた。
仕事のスキルもそうやって磨けば良いではないか。
いずれも冒険の要素がある
この洞窟に入ったら果たして何がいるか。敵に会うか?宝があるか?あるいは新しい仲間と出会うかもしれない。そう考えると、もう寝なくてはと思いながらも、洞窟へ乗り込んでいってしまったものだ。
仕事はどうか?これから会うクライアントは怖い人か楽しい人か?もしかしたら、感じのいい美人かも知れないぞ、そうやってワクワクすれば良いではないか。
責任とか
そうです。仕事は責任が重いので、ツラいのです。いやいや、果たしてそうか?責任って何だ?責任があってもなくても、出来ることはベストを尽くして戦うことだけのはずだろう。
もしかして僕は自分で作り出した幻影のような何かに勝手に苦しめられているだけなのではあるまいか。そう。自分には責任というヨカラヌ魔物がとり憑いているというのがそもそもの錯覚なのではないか。という仮説。
もちろん責任なるものは厳然として存在する。しかし、それが僕の内的世界の破壊者だというのは、僕の作り出した妄想だろう。
仕事を楽しめる可能性は確かにある
どうやら仕事を楽しめるかどうかは、僕の内的世界のありよう次第かも知れないぞ、というところに行きついた。つまり、なんとか出来る可能性が出てきたのである。
本日は以上。40分も書いてた。
では、また。