コミュニケーションにおいてはまず「伝わらない」という前提を持つことが大事だね

電車にいた会社員二人組の話

会社帰りの電車の中での話。僕の横で、新入社員風の男性と、その上司とおぼしきアラフォーの男性が話していた。どうやら、ちょっと酔っている様子。

新人「俺の同期の斎藤、あいつ本当にクッソなんスよ(笑)」

上司「そうなの?」

新人「マジでヤバいです(笑)」

上司「おまえ、いくらか同期だからって、人の事、『糞』っていうのは酷すぎだろ」

新人「いや、良い意味でのクソって事ですよ!面白くて愛すべき奴なんで(笑)」

上司「良いのか悪いのかどっちだよ!」

新人「いや、ある意味、両方ッスね」

上司「なに言ってるか、ほぼ分かんねえよ!」

 会話が全くかみあっていない。

 

伝わらない理由は、人それぞれ背景が違うから

 会話というのは、基本的に、暗黙の前提事項をお互い共有していて、はじめて成立する。最も基本的な所では、日本語の文法とか、単語の意味などである。

しかし、実際にはそれだけでなく、無意識に当たり前だと思っている習慣や知識も、会話を成立させる上で重要なファクターである。例えば行きつけの飲み屋で、「いつものやつ一杯!」で通じるのは、客と店主の間で、『いつも何を飲むか』という知識が共有されているからである。

一方で、先程のサラリーマン二人組は、『クソ』ということばの持つニュアンスや、スラング的な用法を共有できていなかったので、会話が成立しなかったのである。

 

伝達できる情報量なんてタカが知れている

 正確な情報を会話で伝えるというのは、思っている以上に難しい。注意深く聞いていると、あちこちで誤解や食い違いが起きている。実際、不注意な仕事場では、よく「言った言わない問題」が発生している。伝えたつもりが伝わっていなかった事を、お互いのせいにし合うという、誠に見苦しい争いだ。

本当にくだらないけど、くだらないで片付けられない。かくいう僕自身も、無自覚に誤解したり、誤解を産んだりしている可能性はある。何しろ、自分では当たり前だと思っている事が、相手にとって当たり前ではない訳だから、簡単ではない。コミュニケーションというのは、まず完全には伝わらないと思っておいたほうがいい。

 

仕事上のコミュニケーション

 仕事上のコミュニケーションで特に気をつけておいたほうが良いのは、「ニュアンスに頼った言い方」である。仕事で伝えなければならないのは、情報である。よく会話のストレスを軽くするために、オブラートに包む場面を見かける。「もう少し、見積り、なんとかなると、嬉しいな、ねっ(笑)」のような言い回しだ。

ひと昔前は、それでも通じたようだ。でも、価値観も、立場も、育った環境も異なる人と仕事を一緒にする事が増えれば増えるほど、オブラートはリスクでしかない。

 

個人的なコミュニケーション

 個人的なコミュニケーションには、これといった正解はない。会話をする相手との関係性次第で、伝えるためのメソッドが全く異なるからである。夫婦の間だけで通じる、独特の掛け合いのようなものもある。

独特のやり取りで通じあえること自体が、一緒に長時間を過ごして来たことの証であるかのように感じる事もある。

 しかし、僕がいつも気をつけていることは、双方の距離感である。間合いと言ってもいい。言葉の届く距離、刺さる深さが、相手との関係性によって全く異なるという事である。情報だけ伝わればいいという事でもない。個人的な会話のほうが、当たり前だが、ずっと難しい。

仕事で泊まり込む僕は、はたして人生を無駄にしているのか

週末に泊まり込みで納品物をまとめていて思うこと

締切が近い。やることは山ほど残っている。そんななか週末、家にいたところで気持ちが悶々とするばかりで休息の足しにもならない。そういう訳で仕事場に行った。結果的に泊まり込んで納品物をまとめあげることになり、図らずも人生について考え込んでしまった。

僕は何をしているんだろう、という塩梅だ。街ではチャラチャラした男女が仮装して酔っぱらっているのかしら。そんな世俗的な事も考えてしまう。

 

仕事は嫌いではないし、人間世界への参加感もある

仕事は確かにツラい事が多いが、どうしてか嫌いではない。それなりに難しい仕事で、月並みだが世の中の役に立っているという実感もある。人間の世界で、自分の役割分担がきちんとあるという感覚は、本能的に脳が喜ぶ。

仕事が面倒だ嫌だとこぼしながら、その実、仕事の存在が僕の心を強くしているのを確かに感じる。何者でもなかった頃より、少しは胸を張って生きる事が出来るようになった。これは仕事のおかげ以外にない。

 

にもかかわらず、なんとも言えない寂寥感があるのは何故か

何故だか仕事ばかりしていることへの、罪悪感とも、空しさともつかない気持ちがあるのは間違いない。これから目をそらしてはいけない。テンションでごまかしてはいけない。

孤独は結構好きなはずなのに、こういう時の孤独感はあまり心地よくない。自分でそう感じでいるのだから間違いない。

 

では何をしていたら、より充実していると言えるのか

散歩か、マラソンか。バーベキューか。美術館巡りか観劇か。日向ぼっこをしながらお昼寝がいいのか。つまり僕は替わりに何がほしいのか。

思えば色々なものは手に入れてきたはずだ。美味しいものも食べた。美術も音楽も堪能してきた。愛すべき人に囲まれたりもしている。何が足りないというのか?

そうなのだ。何かが足りないとか、これでプラスマイナスとか、そういうふうに考えると僕の根性が、きっと良くない。

 

自分の人生を採点しようとする姿勢自体がよろしくないのだろう

これをやったらプラス何点、今日これが出来なかったからマイナス何点。旧友のあいつは集計何点だから、僕より一寸リード。でも日本全体で見たら、真ん中よりは前方にいるかしら。

そういう勘定根性が僕の中にある。「人と比べないのが人生の秘訣」だなんて言われても、それが出来りゃ苦労はないよと。でもそこに、僕の内的世界の撹乱者がいるのは事実。少しずつでも飼い慣らすタクティクスを身に付けるようにしよう。

では、また。

ゲームはツラくないのに仕事はツラいというのは錯覚ではあるまいか

 仕事≒ゲーム?

 ここで考察したいのは、仕事はツラいという思い込みによって、僕は必要以上に自分を苦しめていないか?ということである。決して「仕事はゲーム感覚で楽しもうぜウェーイ」というような調子ではない。

あと、仕事と一言で言っても、背負ってる使命とかリスクとか、身体的肉体的負担の種類も様々であるから、一般論で何かを片付けてしまおうというつもりもない。

今回は、仕事がツラすぎる僕の為に、それを少しでも緩和してあげるためのパーソナルな考察である。

 

いずれも課題解決の要素がある

 やらなければならないことがあり、その為に頭をひねったり、試行錯誤したりしなければならない。失敗もする。ラスボスの間の扉を開けるための暗号を、実は、ひとつ前の街で聞き出しておかなくてはならなかったと知り、扉の前でうなだれることだってある。そう考えるとゲームも楽ではない。でも嬉々として一生懸命やってしまう。

これは仕事だって同じはずである。難しい状況に直面して、情報を集めたり、ものは試しと当たって砕けたりしながら活路を切り開いてゆく。ゲームと同様、嬉々としてやっても良いではないか。

 

いずれも訓練の要素がある

 習熟すればするほど物事を上手く運ぶことができるようになる。ただし習熟にはエクササイズが必要だ。そしてエクササイズとは往々にして退屈である。

ゲームの中で、剣を振るって特定の敵を倒せるように、戦いを繰り返す。少しでも早くゴールできるように何度も走る。僕はこういったことを、目が悪くなると注意されてもやり続けてきた。

仕事のスキルもそうやって磨けば良いではないか。

 

いずれも冒険の要素がある

 この洞窟に入ったら果たして何がいるか。敵に会うか?宝があるか?あるいは新しい仲間と出会うかもしれない。そう考えると、もう寝なくてはと思いながらも、洞窟へ乗り込んでいってしまったものだ。

仕事はどうか?これから会うクライアントは怖い人か楽しい人か?もしかしたら、感じのいい美人かも知れないぞ、そうやってワクワクすれば良いではないか。

 

責任とか

そうです。仕事は責任が重いので、ツラいのです。いやいや、果たしてそうか?責任って何だ?責任があってもなくても、出来ることはベストを尽くして戦うことだけのはずだろう。

もしかして僕は自分で作り出した幻影のような何かに勝手に苦しめられているだけなのではあるまいか。そう。自分には責任というヨカラヌ魔物がとり憑いているというのがそもそもの錯覚なのではないか。という仮説。

もちろん責任なるものは厳然として存在する。しかし、それが僕の内的世界の破壊者だというのは、僕の作り出した妄想だろう。

 

仕事を楽しめる可能性は確かにある

 どうやら仕事を楽しめるかどうかは、僕の内的世界のありよう次第かも知れないぞ、というところに行きついた。つまり、なんとか出来る可能性が出てきたのである。

 

本日は以上。40分も書いてた。

では、また。

ショットブログとは何か

ショットブログとは

僕の造語である。ショットバーみたいなイメージで考えている。ちょっと一杯、15分一本勝負、といった感じでブログを書いてゆこうと思う。Twitterでつぶやく事の延長線。

 

移動中に書く

わざわざパソコンの前に陣取らない。電車の中、ちょっとした待ち時間を利用する。その方がかえって続くのではないかと思っている。時間を有効利用している感じが、だんだん心地よくなるからだ。

 

スマホフリック入力

スマホから更新する。入力はフリック入力を利用する。フリック入力のスピード鍛練も兼ねたいとは思っている。ブラインドタッチができるようになりたい。

 

途中で調べない

途中で情報収集をしない。頭の中にあること、もしくは直前に頭に叩き込んだ情報でなんとかする。一気に吐き出すイメージだ。手を止めない事をが肝心である。脳の短期記憶の鍛練も兼ねられるかも知れない。

 

背伸びしない

背伸びをすると手が止まる。格好をつけようとするとしんどくなる。もし低レベルの記事しか聞けない様であれば、その程度の実力であったと受け入れようと思う。時間の経過とともに、自分の成長が感じられればなお良い。

 

メインブログのネタ帳

もっと調べて充実した記事にしたくなったら、別で運営しているメインブログで整え直そう。このブログはいわばネタ帳である。

 

自分の引き出しの確認

 はたして僕はどれだけの事を語れるのか。たいして語れないのかもしれない。30年以上生きてきて、それなりに中身のある人間を気取っているつもりでいるが、いざ何かを語らせたら、特段何もないということもありうるだろう。それならばそれで良い。思考の洗濯をしよう。

 

語彙と表現のエクササイズ

 語彙、文体、組合せ、正しい文法、正しくないが伝わりやすい言い方、言葉の使い方はいろいろあるが、そのエクササイズの場としたい。小説を読んでいて感化されたら、使ってみたい表現を使ってみるのも良い。贅沢な遊びだ。

 

見出しから書く

 手を止めないで書くコツは、見出しから書くことだ、と誰かが言っていた。確かに、先に自分にお題を与えてしまった方が書きやすい気がする。書きやすい気がするということは、すなわち書きやすいと言うことだ。

 

今日は20分。結構、脳が疲れる。心地よい疲れだ。では、また。